フレーフレー東北
大文字祈念イべントに参加して
藤富 慶子
未曾有の震災とか、想定外の大津波とか、この目を疑う惨状をテレビが流したあの日から一年。
被災された方々のこの一年はいかばかりであっただろうかと、又、癒されない思いを送っておられる方も
今なお在ることを思うと遠くにあっても忘れてはならない3月11日です。
そして起きてはいけない原発事故は、一層復興を遅らせ、この先見えない終息年月は原発事業に対する複雑な思いが多々あります。
山友会の労山部の一員として、ほんの少しだけど協力をと参加した。
この時期山友会は役員の交替時期にあたりで、参加メンバーはほぼ新旧の労山部だったような。
いつもより遅めの集合時間にもかかわらず、大文字山山頂に12時には着いた。
震災14時46分まで昼食を入れるにしても長い。寒いし、風はあるしで持参した着れる物は全てタオルまでも身に付け、
風をよけてしのぐ。13時に大文字火床に移動した。すでに各京都労山の方々が、続々と集結中、
われわれ京都田辺山友会の持ち場は大の字のノの部分の下から3番目と4番目の火床に、
一つの火床に6人が白紙をかざすのだそうな。ここでも時間があり、風をよけて下の林の中に行く者、
そのあたりを歩く者、その場でしのぐ者、それぞれに過ごす。
「そろそろ時間やで」下から来られた労山のえらいさんに声を掛けられて、私たちも持ち場に戻った。
私は3番目の火床(ニュースされた写真では1番下)の後列右端に位置した。
6人組でリハーサルしたが、縦54.5センチ、横79センチの大きな模造紙を一致してかざすことは、
風にあおられ静止するのが意外と難しい。その顔は出さないで良いとか、もう少し上だ、下だと細かい修正受けた後、
東北向けてのエールもと小学生の「フレーフレー岩手」の音頭の後に皆で2度のシュプレヒコール。
続いて小学生の「フレーフレー宮城」、2度のシュプレヒコール・・・続いて福島、最後東北と順序の確認をした。
いよいよ本番、少し長い黙祷の後、白い模造紙をかざしての地元小学生、一般、労山会員計400人の人文字です。
空には取材のヘリ5台が行き交い、その中での東北へのエールは音頭がはるか風上、頭上にあって聞き取れず、
ムニャムニャで終わった。
小学生、一般の方が解散後、各労山は大文字の中央広場に集まり、挨拶、メッセージ、声明文が読み上げられイべントは終わった。
400人もの小学生、一般、労山と入り混じってのイべントは大変だっただろう。
白大文字の一点の一部の当事者の私たちにはその全容は解らず、その日のニュースで知った。
エールの部分もこのとき聞いた。唯、このニュース京都だけだったみたいで残念です。
来年の3月11日には、大いに復興が進展していること、つらい思いをされている方の明日が
少しでも明るいことを願って終わりとします。