小浜市いずみ町商店街の[さば街道起点プレート]/
「京は遠ても十八里」と記されている
  山口さん撮影

山行日
2008年5月9日〜11日
天候
晴曇ー雨(10日)曇晴
コース
9日新田辺6:26⇒10:00熊川宿(昼食)12:06⇒13:46瓜割り滝14:20⇒16:20小浜市 宿⇒10日宿6:30⇒上根来登山口7:30⇒9:24根来坂峠⇒11:20針畑センター(昼食)12:00⇒16:15久多 宿⇒11日宿7:10⇒9:17オグロ坂峠⇒9:50峰床山⇒10:30八丁平10:50⇒11:45二の谷(昼食)12:30⇒15:05花背峠15:10⇒鞍馬駅16:05⇒17:15新田辺
参加者
リーダー:山下  サブリーダー:大谷
男性:秋月・岡部・倉光・宮野・村上・守口・山口・山下
女性:倉光・河野・大谷
合計:11名    

 

    山行報告  山下 隆

5月9日(晴曇);湖西線の近江今津から小浜行きバスに乗り、重要伝統的建物群保存地区に指定されている若狭鯖街道の「熊川宿」で降りる。

 江戸・明治・大正の建物と歴史が残された町並みを通常の倍の時間を掛けて地元のボランティアガイド(山本良一さん)の案内をいただく。1本の鯖寿司を人数分の11切れでの注文をし、皆でウマイウマイと味わうと、店の方の大サービスでいつの間にか2本分となる。

 明日からの長距離歩行の準備を兼ね、瓜割の滝(環境庁名水100選)まで舗装道路を歩く。写真では立派な滝だが、実物は小ぶり。名水は、宿での焼酎の割り水となった。

 明日の弁当にと鯖寿司を求めて探すこと三千里。閉店直前の浜にある「マル海(kk)」の製造元で入手出来ホットした。男性連中は酒を求めて一千里。地元の魚料理と親切な民宿の方々のお蔭で翌日の英気を養えた。

5月10日(雨);地道:舗装=3:7で、その上雨。条件は良くなかったが前半の山道では期待通りの新緑。幸い風も弱く、一日中傘が必要だったが、雨にぬれて輝く新緑を堪能した。根来坂峠付近ではブナの大木もあり、ウワミズ桜に出会う。ほぼ予定時間にかやぶきの宿に着く。

 こんな田舎にも酒屋だけはキチンとあり、先見の明ある我らは早速入手した。足を痛める寸前の方もいて、夜は足・肩のマッサージ。Yさんの特技は女性連に大歓迎され、翌朝には回復!

5月11日(曇晴);地道:舗装=8:2.朝は小雨残るも、小鳥の声が聞こえ、晴れを予感した。 最高はオグロ坂峠・峰床山からのクラガリ谷・八丁平周辺で、トチの大木群・霧のなかに浮かぶ木々など芦生の森をほうふつとさせた。終着の花背峠には急ぎ足となり、早いバスに間に合い、明るいうちに新田辺に帰れた。・・勿論、鯖ズシを背にし、昔の人の生活の大変さを偲びつつ。

ヒヤリハット;休憩した時、草むらに置いた手袋にヒルがしのび込み、咬まれた。1人は靴の隙間から入りこもうとしているヒルを発見し事なきを得た。





 
    私的「鯖街道」紀行     倉光 正己 

1.鯖寿司:私が小学生の頃、時はまだ昭和20年代で社会全体が貧しかった。わが家は6人の子沢山だったから、家計は火の車だったろうと思う。会社勤めの父親は時折出張したが、そのみやげに「鯖寿司」をたった1本だけ持ち帰ることがあった。いま思えば、出張先は京都だったのだろう。住んでいたのは山陰海岸の小都市だったから、普段の食事のおかずは新鮮な魚が普通だっ た。あの「松葉蟹」でさえ地元消費が当り前の時代で、晩御飯のおかずになった。

 そういう子供にとって、鯖寿司というのはなじみの薄い奇妙な味だった。竹の皮に包まれたパンパンにはちき れそうなご飯の上に鯖の半身が乗り、さらにその上に薄い透明な昆布がありがたそうに乗っかっていた。6人で分ければ、一切れか二切れでおしまいであった。どうして甘いお菓子を買ってきてくれないのだろうとうらめしく思った記憶がある。

 長じて京都で学生生活を送り、そのまま京都暮しをすることになってみると、鯖寿司というものがそう安いものではないことがわかってきた。あの寿司のスタイルからすると、「いづう」とか「いづ重」とかいう老舗の製品だったように思われるが、いまでもそうめったやたら口にできるものではない。

 私が中学2年生のとき、父は脳溢血で倒れた。50歳だった。以後、半身不随となったが、幸い 社会復帰をしてくれたので、私は大学を卒業できたのだった。しかし、父が出張することはなくなったから、鯖寿司とも縁が切れた。父は59歳で亡くなったので、あの当時の京都みやげがどう して八橋や五色豆ではなく、安くはない鯖寿司だったのかを確かめる機会がなくなった。父の死からも.う43年経つ。鯖街道の山行案内を見てぜひ参加したいと思ったのだった。

2.熊川::恥ずかしながら、この町の名前を聞いたことがなかった。出発前、本棚を探してみた ら、発行が昭和年代の若狭の古い案内書が出てきた。めくってみたが熊川の記述は一行もなく、 ただ、地図の中に熊川なる地名が載っているだけだった。山下リーダーの配慮で、ボランティアの方のガイド説明つきで現地見学ができたのは大変ありかたかった。

 「重要伝統的建造物群保存地区」なる舌を咬みそうなものに指定されたのは、ほんの10年ほど前らしい。以後、整備されて見事な町並みが保存されることになったが、住民の方にはいろいろの制限もついて、いいことばかりではないようだ。現に町並みの中の家で暮らしておられるガイドさんのユーモアを交えた行政、 政治批判はもっともだと感じた。

 電柱の1本もないきれいな町並みが残るのはいいことだが、芝 居の書割のような町並みを一部だけ残し、いろいろ規制をかけておいて、「わが国はこのように歴 史、文化を尊重しております」と言わんばかりの政治、行政のスタイルには疑問が残る。いろんな省庁が似たような「保護、保存政策」をバラバラにやっているのも奇妙なことだ。熊川の町並みの美しさの裏までを教えてくださったガイドさん、ありがとう。

3.小浜:いまや「ちりとてちん」と「アメリカ大統領?」の里として人気上昇中である。現に、 町中に「ちりとてちん」と「オバマの似顔絵」のノボリがはためいている…、と言いたいところ だが、駅前通はご多分にもれずシャッターが多かった。2日目の登山口までのタクシーの運転手 さんに聞いたところでも、それほど客は増えていないという。ガイドさんや運転手さんの話で、 越前(嶺北)に比べ若狭(嶺南)が財政的に差別されているというボヤキが印象的だった。

 小浜 と言えば、古くから開けた地域で縄文の遺跡があり、若狭の国の国分寺、一ノ宮の在所でもあり、 東大寺二月堂お水取りにお水送りをするほどの由緒ある地域である。いったい、何故にこういう 事態になってしまったのかという疑問が芽生え、今回の旅の宿題となった。

 そんなことを思っているうちに、一度小浜に来たことがあることを思い出した。当時、町は塗り物の街としてそれなりに賑わっていたように思う。今回、民宿さわにお世話になったが、前回どこに泊まったかまったく思い出せない。あちこちのお寺めぐりもやったが、その詳細はほとんど記憶にない。今回タクシーで寄った若狭姫神社(若狭一ノ宮)の立派な大杉にすら覚えがなかったので、いよいよ記憶喪失症が始まったかと怖くなってきた。

 帰ってきてからいろいろメモやアルバムをめくってみたら、前回の小浜訪問は1971年、37年の大昔で、大阪万博の翌年であることが判明した。我らが結婚の翌年である。若い夫婦がなんでこういう地味なところを旅したのか、これまた不思議である。まだ安アパート暮らしで車もなかったから、公共の乗り物で移勤したのだろう。これでは記憶が薄れて当然だと、ちょっと安心した次第である。

4.鯖街道:私の悪いクセで、本番前の話が長引いた。以下、印象に残ったことだけを記す。鯖街道と呼ばれる道は沢山ある。また、運んだのは鯖だけではなく、要するに日本海と京の都との間を物品が行き交った多くの道の愛称である。今回は、山友会向きに山歩きがなるべく多くなるように配慮した、山下リーダーの厳選コースである。このコースはバライテイーに富んだものであったが、一言で言えば「よく歩いた!」。

 雨に濡れた山道は、広葉樹の新緑で見事だった。特に、3日目午前、久多の宿からハ丁平への分岐であるオグラ峠までの林がよかった。トチやミズナラやホウの大木が芽吹き、美しい眺めだった。イワカガミ、ツツジ、アセビ、ウワミズザクラなどの花々…、まだ幼いササユリが時々見つかったのも嬉しかった。それに引き換え、2日目午後、山を下ったあとの針畑から久多までの県道歩きはくたびれた。

 登山靴には舗装道路はまったく似合わない! 時折見かける民家は気になった。閉めっきりが多い。朽ち果てた家もある。軒下に洗濯物を発見するとほっとする。 しかし、周りの田畑はトタンの柵や電気柵で回まれている。獣除けだろう。人が減れば獣は増え、人はよけい住みにくくなる。過疎の現実である。集落毎の人口には尖がった独特の形の戦死者の墓があった。こんな山奥からまで…。林の中に「墓の墓場」も見た。無縁仏となって長い墓が街中の寺から引き取られ、エコか業者のエゴか知らないが、再生されるのだそうな。

 美しい林の中に、車や電化製品の不法廃棄物も多かった。日本人の堕落を見る思い…。そんな中で、久多の茅葺の宿「ダン林」はよかった。山菜のテンプラを味わいつつ、日本人の古の生活を思いやったことだった。 ともかく、自然の美しさを愛で、かつ日本の現状を憂いつつ、いろいろの思いを抱いて歩いた3日間の鯖街道たった。

 夜の部は、酒宴に指圧にといろいろの交流ができて、これまたよかったが、詳細は「個人情報機密保護」のためカットとする。肝心の鯖寿司だが、リーダーと女性陣が小浜で苦心して入手して下さった。四川省出身の中国人女性の手になるものだったそうな。鯖寿司もいまや国際的である。京都まで運んで味加減の変化を見る予定だったが、2日目の昼食となり、残りも3日目の間食と消えて、箱と包装紙だけが鯖街道を京の町へと運ばれたのだった。

 鯖の上にあるはずの透明コンブは乗っていなかった。お値段のせいなのか、それとも、あれは京の都で新規開発された付加価値付与装置なのか、この事実の真相究明も宿題として残った。

 周到なる準備と正確なる読図により、鯖街道を京都まで、全員無事運んでくださった山下リーダーに心から感謝します。同行の皆さん、楽しい歩きをありがとうございました。(おわり)

 [あとばなし]後日、デパ地下で老舗の鯖寿司を発見し購入してみた。 4,410円也(私は半分だけ)。一切れ360円! 黒い昆布で全体を包み、昆布は食べるなとの注意書きがあった。