吉野から熊野まで大峯奥駈道100キロ完歩

山行日
2008年12月2〜5日
天候
コース
行仙岳登山口6:30⇒9:40笠捨山9:50⇒16:40玉置神社展望台6:30⇒10:50五大尊岳11:00⇒16:40熊野本宮大社
参加者
リーダー:佐々木     サブリーダー:山口
男性:倉光・徳田・中山
女性:大谷
合計:6名    

 

    山行報告  佐々木英夫
第1日目 12/2京田辺−下北山村池原キャンプ場(テント泊)  

 12時に京田辺を出発、車で南下し下北山の池原ダム下流のキャンプ場でテント泊とした。 日本の産業が急成長時代に必要とされた電力を供給するために、旧株電源開発が築造したもので、私が勤務していた会社が工事を担当したものだ。社史を読んで一度見たいと思っていたアーチ式ダムである。下流はスポーツ、キャンプ、温泉と整備され、ダムの壁だけが高く聳えでいる。ダム湖は壁の向こ うに満々と水を湛えていて、恐怖感さえ感じるが、技術者としてみればその安全性に不安はない。


きなり温泉オートキャンプ場でテント泊 
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夕食の鍋を囲んで 

第2日目 12/3行仙岳登山口(R425号線)−笠捨山−地蔵岳−槍ヶ岳−香精山−塔ノ谷峠−谷ノロ −花折塚−玉置山展望台P (テント泊)約16、2km            


南奥駈道 

  1ヶ月前の秋燃える11月7日昼ころに下って来た登山口の階段をうっすらと明けた12月3日の 朝6時30分、再び大峯奥駈道の縦走路へと、登り始めた。今回がシリーズの最終回である。前夜は池原キャンプ場でテント泊、今回も中山勝久さんのご支援を頂き、峰中では2日とも歩行では一番長い距離を歩くため、荷物は出来るだけ軽量とした。絶大なサポートに感謝したい。

 縦走参加者は、フル参加の山口博さん、女性大峯コース完走の大谷典子さん、第二回目は参加できなか った倉光正巳さんと私の4名で登り始めた。徳田康二さんは、すこし体調が優れないため中山さんと行動を共にすることとなった。 紅葉はすっかり終わり、木々の寒々とした風景がわびしい。

 縦走路の分岐からすこし下ると、新宮山彦ぐるーぷの行仙宿山小屋と行者堂があった。すこし休憩し、 前方に聳える台形の形をした笠捨山(1,352m)に気を引き締め進む。

 行仙小屋から下り、老杉の根元の靡き八大金剛童子から小さなピークをいくつか越え四ノ川覗きで渓谷を見下ろす1,246mのピークからは、これから登り進む地蔵岳、槍ヶ岳がくっきりと見える。天候は澄み渡り最高の日和である。やがて急坂の笠捨山の登りとなる。


笠捨山 

 辛い修行の中にも歌の心を忘れなかった西行法師の自然を愛する気持ちに感嘆せざるを得ない。峰中の歌は月の歌が多い。石標が菊ケ池、拝返しと続づく靡きでは、地蔵岳の頂上を拝したのだろうか。檜宿を過ぎ香精山(1,122m)の山頂に着く。香精山から植林帯の中をジクザグに直下すると大岩の前で貝吹之野の石標に出逢う。伝承によると、ここから法螺貝を吹いてかまどの火をつけて食事の支度 をする合図を送ったとある。大岩の高さ10m以上はあろうか、垂直に近い斜面の崩壊しそうな山を頑強に支えている感がした。

 さらに下ると塔の谷峠に立つ。上葛川に至る道の分岐だ。植林地の鬱蒼とした一帯で暗い。ここまでの最大の難所といえば、大普賢岳から七曜岳、行者岳までの薩摩転げなどの岩場、 孔雀岳から釈迦ヶ岳の狭隘な岩場道、そして笠捨岳から槍ヶ岳、地蔵岳のキレット、鎖場、岩場、大崩 などの危険な登山道を慎重に通過して来た。行く先の道々はまだまだ過酷な厳しい難所は続くのだろうか想像もつかない。

 塔の谷には金剛童子が祀ってある。さらに広いなだらかな台地を進むとゆく手の右に21世紀の森へ、左に上葛川の民宿への道が分岐している。古屋の宿を過ぎ如意殊岳のピークを越え ると岩の口につく。ここから上葛川への集落に下りる道がついている。

 地図によると笠捨山から、または葛川辻から地蔵岳を越えずに香精山、または上葛川の集落に下る巻き道があるが、これは修行者と言えど槍ヶ岳、地蔵岳の余にも厳しく、嶮しい奥駈道を回避して通ったのかも知れないと思った。

 植林の間から21世紀の森の建物が見える。明治22年の十津川大水害で古屋山が大崩壊し白谷川 を埋め尽くし広大な台地を出現させたと言う。奥駈道の平坦な西側には、円弧すべりで出来た窪地があちこちにみられた。

 村史によると、この大水害の被害は家屋崩壊4百戸、半壊220戸、死者200人、被災者2、50 0人であったと書かれている。北海道の新十津川村は、このときの大災害の後、被災者のほぼ全員が移住して出来た村である。十津川の谷瀬の吊橋は、渓谷が水害で埋没した後に架けられたものである。そんな悲惨な大災害を発生させた古屋山、如意珠岳の頂上を感慨無量で越えたものだ。


地蔵岳 

 岩の口から杉林の中を進むと、稚児の森に着き、十津川の集落が見え隠れするようになり、林道に合流する。大きな大峯の地図が書かれた標識があり、道はまた、山道に入る。何度か林道に接続しては、また自然林の中の道をだらだらと登り行く。花折塚を経て長い道を進む。花折塚は、南朝の忠義な家臣が、 討死して葬られた場所で、道行く人が野の花を手向けたところから付けられたと言う墓所であると案内 されていた。

 やがて玉置山の展望台と公衆トイレのある駐車場に到着。一足早く着いた中山さんがテン トを設営していてくれた。十津川の集落が眼下に望まれ、西方のかなり高い山間に十津川が悠々と流れている。今夜はここで泊りとする。思っていたより酷な長い道程で皆へとへとになったが、夕食はすき焼きで、明日の活力を期待した。明日も天気がよさそうだ。満天の星座が素晴らしかった。この展望台には、星座の観察や、雲海の撮影に訪れる人が多いという。

第3日目 12/4玉置山展望台P−かつえ坂−玉置山山頂−玉置神社−大森山−五大尊岳−天神大黒岳 −吹越山−七越峰−径塚遺跡−備崎−熊野本害大社(川湯温泉泊)約18,2km

 4時、まだ星空の元に生き生きと目覚めた。 山中に入ると街の明かりや集落の家並を妙に恋しがり、昨夜は十津川の灯かりを見てほっとしたものだが、ひかり瞬いていたその谷間は、すっかり雲海の下に沈みひっそりとしていた。 小さな峰々が小島のように浮かび、山腹の面を這う動雲の様は、海岸の波打ちに似て、壮観であり、 また深い静寂を湛えているようだった。
テントの撤収は中山さんと、徳田さんが撤収してくれると言うので、私達は6時00分、かつえ坂をゆ っくりと登って行った。

 十津川村の言い伝えによれば、この付近は「千年斧入いらず」と言われた原始林の森があり、西行法師があまりの鬱蒼とした深い森のためここを通過できず、笠を捨てて逃げ出したことから、山名が付け られたと言われているらしいが定かでない。現在は照葉樹林と植林との混在である。 

 150mほどの高度を登り詰めると西峰に到着した。頂上には石碑があり、展望は360度に開けている。さらに道は急勾配の荒れた坂を登りと同じくらい直下すると、キャンプ適地と水場のある葛川辻に着く。ここから槍ヶ岳の先鋒が聳えている。道は急峻で、岩や木の根を三点支持で登ると大岩が現れ、キレットの上に覆いかぶさるモミノキの根の狭い橋を渡ると、巻道危険の標識があるが、あえて危険な巻き道を行く。


地蔵岳への岩場 

 その先に石標が設置されてあり、さらに険しい鎖場や直立した大岩壁を、岩や木の根っこを掴みよじ登ると雑木に囲まれた狭い山頂に着いた。槍ヶ岳と思い込んでいた山頂が地蔵岳(11,250m)だった。 槍ヶ岳は巻き道の大岩の上だったのかも知れない。この厳しい小さな峡谷の登り下りのルートを歩いていると、 なんだか距離、時間ともすこし徳をした気分を感じた。

 地蔵岳は方状節理の発達した痩せた頂上で周囲は潅木で囲われ展望は余りよくない。雨乞いの祈願所とも言われ、地蔵菩薩が祀られている。この山は修験者の行場であると共に嶽信仰の厳しい岩峰であることには間違いない凄さだった。


大峯奥駈道の大普賢岳を遠望 

 すこし進むと、展望が良く難行してきた孔雀岳から釈迦ヶ岳、行仙岳さらに大峯山脈の最高峰ハ経ヶ岳の峰々が、延々と見渡せる。まるで北天に昇る龍のうねりくねった大峯山脈は南北に連なり、笠捨山で直角に西に折れ、四阿宿で再び南に連なる。シャクナゲと コウヤマキの多い尾根である。ほっとする間もなく厳しい直立した気の抜けない下り道は上葛川への下山口まで続いた。

 すこし上り返し東屋山の南の四阿宿跡に到着、やっとほっとした気分になる。ここで昼食にする。この辻からはR425線に下る道が付いている。中山さんが玉置山展望台Pからここまで 順峰を歩いてきてくれた。徳田康二さんは香精山で待っていると言う。

 二度も大峯の修行に出た西行法師は、山家集によると十八首の歌を詠んでいるが、ここ四阿宿でも二首の月の歌を詠んでいる。

    神無月時雨はるれば東屋の 峰にぞ月はむねとすみける   西行  1198

    山々は雲海纏いて深々と 静寂の朝を迎えにけり  

 道は緩やかで、ミヤコササや潅木、ブナの林を登って行くと小さな鞍部に到着、さらに登ると無線中継所が右に見え、シヤクナゲのトンネルを抜けると、玉置山(1,076m)の頂上に着く。
沖見地蔵が祭られたコンクリートの祠が東南を向いて建っていた。おりしも日の出の時間で、空は紅に 染まり、熊野灘に落ち込む大台ケ原から派生した山脈の高峰山、子ノ泊山、大雲取山や烏帽子山などが、北山川の川面から沸きあがる雲海を腰に巻き今まさに御来光の出現を演出をする最高の大舞台を用意していた。


玉置山の夜明け 
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奥駈従走路からの雲海 

 しばらく、その山頂客席で御来光を仰ぎ、この奥駈道のすべての朝に来光を拝した事を幸せに感じた。晴れた日に熊野灘が見渡せるので沖見岳とも呼ばれている。 去りがたいが、山頂を辞し、登りとはまるで違う急斜面の道をジグザグに降ると 、杉の巨木が競うように、まっすぐに素直に天を突いている。急斜面に凛と林立する杉はどれも素晴らしい端正な姿勢で生育 している。温暖多湿の気候が、住みよいのだろう。

  巨大杉に囲まれた玉石社に着く。鳥居の奥の白玉石を敷いた中に黒く露出した巨岩がご神体であるという。この付近は枕状溶岩が多く露出していて、奈良県の天然記念物に指定されている。 火山噴出物の溶岩が流れ海中に沈むと表面はすぐ固まるが、中のまだどろどろとした流動体の溶岩が、 固化した薄い部分から袋状に再度噴出してかたまった溶岩が、海底から隆起して紀伊山地が造山された中でも、この玉置山は特異な造山活勣だったのかも知れないと思った。

 古道をさらに降ると、神社の境内着く。社務所の横を通り、本殿の前に出る。本殿は総欅の入母屋造りで、石垣の上に鎮座し、背後や周囲の巨大すぎに囲まれた荘厳な神社であった。 玉置山は、南奥駈道では、屈指の山岳信仰屋、修験の聖地である。社伝によれば、神式天皇が東遷のとき、ヤタガラス導かれ、この地に神宝を鎮めたといわれ、その後、 崇神天皇が創建した。ヤタガラスと言えば、樹氷で有名な高見山を思い出す。

 玉置山で役行者や弘法大師などが修行した地と言えば、自然体に南奥駈道の中心的な拠点となっ たのは、大いに頷ける。巨大杉の雰囲気も、歴史の重みも山全体に感じたものだった。 京都聖護院の本山派の配下として、順峰の修験道は隆盛を極めで来たものと思われる。

     神域に凛と立てる巨大杉 幾千年の時を刻みて

 神社から再び奥駈ノ道に戻り降ると犬吠檜なる場所があり、朽ちた根が尾根にあった。さらに下り鳥居のある本宮社の車道にでる。右の本宮の標識を頼りに旧道を進むと、すぐに林道に合流、その林道を行くがどうも違うような気が して、一度本官辻まで引き返した。倉光さんの虎の巻によると、その林道を進むと旧道につながるらしい。『歴史的奥駈道を破壊するなんて!とんでもないことだ!』と腹を立てたが、時代のニーズには逆ら えない。やっと旧道につながり、登っていくと竹筒分岐の標識に出逢う。


大森山頂上 

 吉野からの熊野まで奥駈道でも、この竹筒分岐から北山川沿いに下り、舟で新宮まで行く事もあったそうだ。私達は、さらに大森山を目指しひたすら登る。尾根に辿ると太平多山の分岐で、道は緩やかにな り、大森山(1,078m)まで続く。なだらかな山頂であった。途中左への道があったがガレ危険通行止とある。すこし進むと三角点のある大水ノ森(1,044m)に出て、道は急勾配に直下し、転げ落 ちるような凄さだ。木立を掴みながら250m下りきると篠尾辻だった。右切畑へ、左篠尾への分岐で 地元では切畑の辻と呼ばれているようだ。

 シヤクナゲの群生地を通過、いよいよ五大尊岳への急登で木の根や岩盤を掴みながら登りきると、五大尊岳のガリガリの痩せ尾根の狭い北陣の山頂(800m)で不動明王石仏が祭られている。仏典によると五大尊とは東の降三世、西の太威徳、北の金剛夜叉、南の軍茶利の各明王で中央の不動明王を守護しているそうだ。

 本峰(825m)はまだ先で、ここからは想像だにもしなかった狭隘な尾根道は両側とも千尋の谷で深く足元から切れ込んで居る。木立が無ければ、恐怖心が先にたち歩くのは困難な蟻の戸渡りのようだ。 西行の山家集の中に、蟻の戸渡りと申す所にて詠める歌として山上嶽(東の覗きであろうか)の険所で詠 われているが、この五大尊岳の険阻な山稜道もまさしく蟻の戸渡りと思えたほどだ。

     笹ふかみきりこすくきを朝立ちて なびきわづらふありの戸渡り  西行 1203

     五大尊越え行く峰は険岨にて 心身こわばる蟻の戸渡り

 また急坂のくだりで、足が棒になるほど硬くなる。立ち木や岩角を掴みながらの降下である。 やっとの思いで鞍部に着くとそこは六道ノ辻とあり、八大金剛童子が祭られている。金剛多和と言う靡きで上切畑へ通じている。子供のころ、悪いことをすると《地獄に落ちるぞ!》と叱られたものだが、 六道とは死後の世界で、生前の行いによって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天国と区別して送られる入り口と言われている。そう言えばふるさとの田舎のお寺で見た襖絵にはその様子を描かれていた記憶がある。芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』もその冥界を書いたものだろう。

昼食をとり、大黒天神山(574m)を経て山在峠への長い道程を歩く。尾根付近にはウバメカシが密生していて、鉄塔の立つ場所から熊野川が蛇行して流れる集落が見え出すと、ほっとする。 もうこの山々は、里山のようなもので集落が近く、道もよく整備されている。

 中山さんは大黒天神山付近まで、七越峰の駐車場に車を置いて迎に来てくれた。心強い道案内が出来た。吹越山、吹越権現を過ぎ、わき道を通り七越峰の広場に到着すると徳田さんが待っていてくれた。延命地蔵と西行法師の歌碑があり夕景日本100選の峰を跡に、徳田さん先頭に備崎の河原まで歩いた。樹間から大斎原の大鳥居が見え隠れする。もう大峯奥駈道縦走も間もなく終るのだと思うと感無量だ。

     立ちのぼる月のあたりに雲きえて 光重ぬるななこしの嶺   西行  1494

     法師らが修行求めて駆けた道 歌を偲びて我らも駈けたり

 塚塚遺跡をくだり備崎の河原に到着、対岸の大鳥居をみた。川は徒渉できず、車で熊野本宮大社に参拝 し、大峯奥駈道の峰行安全を感謝した。

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 世界遺産大峯奥駈道の縦走を終えて

  世界遺産《紀伊山地の霊場と参詣道》の珍しい道の文化遺産を縦走してみて、自然や歴史的文化の変化にとんだ特徴ある6つのブロックに分けることが出来ようか。

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吉野山から山上ヶ岳を経て南の女人結界弥陀ヶ森までは、観光と修行の聖地、霊場で、修験者でなく とも仏の有難さが体験でき、自然もそれなりに残されている歴史と文学の道である。

A阿弥陀ヶ森から弥山までは大普賢岳、七曜岳、行者還、笙の窟などの修験者や登山者でも上級クラスの難易度のある山稜を歩く道であろうか。

B弥山からハ経ヶ岳、仏生岳、釈迦ヶ岳、大日岳を経て前鬼へ下る太古の辻までは、厳しい修験道で靡きも多く、縞枯れや、山崩れなど自然が崩壊に向かいつつある危惧を感じた道である。

C太古の森から行仙岳小屋までは自然林も豊富で、道もよく整備されていて、自然、天然林も良くのこ されていて、癒しの道である。山稜も明るい。

D行仙岳小屋から笠捨山、地蔵岳、玉置神社、五大尊岳、六道の辻までは、霊場地あり、修験道としては険阻で、岩場、キレット、ルンゼありで、厳しく、修行者といえど、その峰々を越すことが不可能だ ったのか、また、宿での水の確保が難しく、迂回する道があったようだ。修行体験の道である。

E六道の辻から熊野本宮大社までは、集落も近く、里山のなかの参詣道といったところだろうか。 いずれにしても170kmにも及ぶ参詣道は、相当な気構えで歩かなければならない。事前の周到な 準備に加え、修行と違い、靡きでの儀礼はしないにしても、修験道とは何かのさわりでも学習して置かなければ、道を歩く興味が半減する。

 今回3回シリーズで、この奥駈道を縦走したが、もっと日程に余裕があればよかったかなと思う。または一気に縦走する方法もあるが、6泊7日位の日程を要し、食糧、 水、シュラフ、テントまたはツエルトなどの持参が必要だ。縦走の季節であるが、入梅から秋口までは 山蛭やダニが多く、多雨多湿山域、雷雨も発生しやすいので、この期間を避けたほうが良いと思う。

  シリーズ区間の交通機関も充分考慮しておく必要がある。今回は、中山勝久さんのご好意とご支援の御蔭で、登山口から下山口までの送迎が、このシリーズが無事完了できた最大の要因と心からお礼を申 しあげたいと思う。シリーズ毎で、終始先頭をリードして頂いた山口博さんをはじめ、参加者の皆さんにも、お社を申し上げます。  同行者、山口博さん、倉光正巳さん、大谷典子さん、 徳田康二さん、中山勝久さん

     蔵王堂を出でて峰々越え行けど  熊野の社はかくも遠きか

「写真提供は山口さん」