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いざ出陣
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山行報告 | 佐々木英夫 | |
はじめに 日本百名山を完登して、しばらくはその余韻にしたり、本の原稿や、絵画の制作などに時間を費やし、念願の出版に、ほぼ目処が着いた途端、もう次の目標を求め始めた。さてはと?、次は以前からの憧れだった世界遺産(自然遺産)めぐりの旅だった。屋久島、知床、白神山地は、すでに踏み跡を残した。 2004年7月近郊の『紀伊山地の霊場と参詣道』の大峰奥駈参道が世界遺産に登録され脚光をあびだした。奈良の吉野山から和歌山の熊野本宮までの約170kmにも及ぶ壮大且つ険しい修験道である。いわゆる道の文化である。歴史的な価値や75の靡《なびき》の行所や、未知の原生林など興味をそそらずには置かない大自然の中の縦走路である。大峰山系の最高峰は八経ケ岳(日本百名山)で、ここはすでに登った。 八経ケ岳に登ったとき、紀伊山系の背骨が深い山並みを連ねて、延々と脈打って南の太平洋に落ち込む如く霞んでいるのを望んだとき、この峰のその魅惑に果てしない感動を覚えてから、間もなく世界遺産になったことに、私の憧れは深く深く傾倒して行った。今回、余暇も生まれたこともあって、意を決してこの縦走をシリーズで企画し走破することにした。 2008年の例会に繰り入れでもらい、3〜4回シリーズの第一弾は、吉野山から五番関の女人結界、山上ガ岳、阿弥陀ガ森の女人結界までは、残念ながら女性の入山がかなわないため、男性のみの山行となった。この企画を山友会のOB中山勝久さんに話したところ、吉野山の始点まで送りと第1回目の終点行者還林道トンネル西口の迎を快く賛同し同行してくれた。強い味方の幸先のよいスタートと感謝した。 第1日目 吉野山蔵王堂から二蔵宿(泊)まで林道に沿った古道をさらに歩くと四寸岩山登山口で吉野古道は植林地と自然林に挟まれた急登の道となる。簡易モノレールが道に沿って設置されている。(後から知ったのだがこのモノレールは山上ケ岳への洞川登山口の洞辻茶屋まで延々と連なり、荷揚げ用のモノレールと判明した。) 古道には茶屋跡が理にかなった平坦な場所に適宜に配されており、それらからこの道が山上参詣者で賑ったことが偲ばれる。 四寸岩山(1236m)からの大峰山系の展望は、好天のご利益で素晴らしいものだった。 めざす大天井ガ岳、山上ガ岳や、麓の集落、川など、芽吹き始めた木々の緑が眼に眩い。 山頂に白色チャートの露岩が二つ並んであり、その間の道幅が四寸しかないところから四寸岩山と命名したとある。 なだらかなブナ林の気持ちのよい尾根を降ると足摺茶屋跡に着く。近年建造の蔵王権現を安置した蔵王堂があった。この周辺には石灰岩が露出し、役の行者の母が足跡を残したと言う足摺石があるという。苔むしていて判らなかったが、役ノ行者像はあった。さらに降ると吉野大峯線に合流し左手の広場の九十丁石から旧道に入っていくと百丁茶屋跡に出る。丁石の表示は吉野愛染宿から百丁、ここから山上蔵王堂まで百丁あり、ちょうどここが中間点だったようだ。 二蔵宿(69には早く着いた。小屋の中央には達磨ストーブが置かれ10畳ほどの板の間のほかに、土
間の上に二階も有る。小屋の周辺は比較的広く、不動明王堂役ノ行者の祠があった。この付近には
蔭桜と言うシロソメイヨシノより遅咲きの桜が多くあり、奥の千本が終わっても花見が出来たらしい。 《もろともに哀れと思え山桜 花よりほかに知る人もなし》 僧上行尊
雑木林の急道を登ると小天井ガ岳(1239m)を経て植林地の中を行くと役行者が灯明を献じたと言う火打峯の小さなピークかある。再びモノレールが現れ、それに沿って登ると見晴しのよい広場に出る。大天井茶屋跡で不動明王の祠があり、遠く金剛山系や吉野町の家並みが見える。ガレ岩場を登ると大天井ガ岳(1439m)に到達した。山頂付近は赤色チャートの露岩が目立つ。 山頂を跡に急なくだりを下りると碁磐石という奇岩が有り、修験者らに神聖視されたものらしい。山上ガ岳が正面にどっしりとした台形の姿を現した。現在の女人結界五番関は天川村洞川と川上村を結ぶ峠で、谷渡茶屋として繁栄していたらしい。女人結界の範囲が縮小されたため、吉野から五番関、洞川へ迂回し、女性でも大峰奥駈道は山上ガ岳を除き、再び川上村柏木から入山し阿弥陀ケ森の結界から南へ至れば充分修行登山が可能である。同行していた中山さんはここから吉野まで引き返して、行者還トンネル西口登山口まで車を移動するために別れた。 五番関から新道と旧道に分かれる。結界門をくぐり、私達は旧道を選択、右道を登った。急登であったがブナ、リョウブの多いジグザグの坂を登り切ると、新道と合流し、なだらかなU路の道はやがて鍋冠行者堂に着く。百五十五丁石が立っている。ブナ林の尾根は陽光が射し涼しげな風を誘い、落葉の踏み痕が優しい道である。遭難碑を過ぎ、今宿茶屋跡のピークが1448mで、さらに岩場の蛇腹をクサリでよじ登り、平坦な尾根に出ると、山上ガ岳が目前に望め、宿坊などの建物も確認できるまでに来ていた。 右に雨量測候所を見て下ると洞辻茶屋につく。吉野からここまで多くの茶屋跡を数えてきたが、現在まで開業しているのは洞辻茶屋と陀羅助茶屋の二箇所だけという。5月3日の戸開に合わせて、両茶屋とも登拝者を迎える準備で忙しく働いている。洞辻茶屋(69)は洞川道の合流点で、円満不動明王像が立っている。茶屋の中央を参詣道が通過し、両側に休憩所の縁台がある。建物を抜けると出迎不動尊の像が立っている。山上への表行場の入り口がこれらの象徴によって何かしら厳かな気持ちになった。 この付近から塔婆や石碑に奉修行大峯修行三十三度や五十度と記した供養塔が所狭しと建っている。浄土信仰の名残なのかもしれない。陀羅助小屋を抜けると、道は二手に分かれる。左の行者道を登る。岩場を上ると鐘掛岩の下に出10mものチャートの岩壁を見上げる凄さだ。鎖が途中までぶら下がっているのは、この岩場を登る行のあることを示していて、役の行者が山上本堂にある釣鐘を担いで絶壁をよじ登ったという伝説から銘々されたらしい。絶壁を迂回するように階段を昇り鐘掛岩の上に立つと、歩いてきた吉野からの軌跡がはっきりと展望された。 四寸岩山の南側斜面はブナ林の緑が造営林の中に竜が天に昇るごとく蛇行していたし、大天井ガ岳は三角錐の秀峰を天に突き出していたし、吉野ははるか彼方にかすんで見えた。 お亀石の霊石を過ぎると金峰山修行第三門をくぐり西の覗きの岩場に立つ。山上ガ岳を知らなくとも金峯山寺の名前を知らなくともこの西の覗きの修行場は誰もが知っていることだろう。 捨身、懺悔の場として絶壁に身体の半分以上を中吊りにして修行させるといい、その断崖は 300m以上有ると言う。 今回の同行者、秋月さん、中広 さんも髪の毛が立つほどの恐ろしい経験を味わったという。硬いチャートの岩峰は深い谷の底から、竹林のように規則正しく長い年月風雨に耐えて周囲に屹立していた。このような自然景観を造り出すのは、固いチャートと石灰岩のサンドイッチ式の互層の地層が隆起して造山されたのが、水に溶けやすい石灰岩が溶け出しチャートが残ったためである。 宿坊の間を抜け、大峯山寺の本堂を見る。この山頂は東西約300m南北約500mと広く、一帯は硬いチヤートが岩峯、絶壁を創り、山岳修行には格好の修行場で、最大の霊場として栄えてきた。宿坊(参籠所)は現在六坊あり、戸開期間中は全国から修行者や登山者、俗人等が耐えないというほど繁盛している。 山上ガ岳(67)(1719m)の山頂には勇出岩があり、役の行者がこの 岩の上で蔵王権現を呪文によって降臨させたといわれている。女人大峯の稲村ケ岳や弥山・八経ケ岳、その先に釈迦ケ岳に続く大峰の山々が青く深く連なるのを展望できて、あの峯を縦走するのかと思うと、嬉しくて胸がワクワクした。 蔵王堂には蔵王権現像と行者が祀られている。今夜の小篠宿はここから1時間位先の竜ケ岳の麓にある。小篠宿(66)は奥駈道では山上に次ぐ大きな根本道場だったらしい。宿場は稜線の南側に広く開け、岩壁に囲まれた中央に行者堂・不動明王像・聖宝座像と避難小屋、石造りの護摩炉があった。水は豊富で小川を作って流れているし、いまだ残雪があつた。5人しか入れない避難小屋は、先達ならぬ先着の私たちが使用させてもらった。 遅くなって一人の登山者が避難小屋に入ってきてとめてほしいと言ってきたので、もって来たテントを貸してあげた。宿や避難小屋は人数が制限されているのでテントかツエルトは装備の必需品であろう。 第3日目 小篠宿、阿弥陀ケ森、大普賢岳、七曜岳、行者還岳、一ノ垰、行者還T西口登山口
朝、宿一帯は大峯山特有の深い霧が立ち込めていて、幻想的で何かしら霊を感じる雰囲気が漂っていた。 古い石畳を少し登ると柏木道で平坦な尾根を気持ちよく歩く。先年、奈良県を襲った台風の被害が、いまだあちこちに残っていて、倒木の周りには若い苗木が世代交代とばかりすくすくと育っている。 自然公園の様相の中1時間足らずで南の女人結界門の阿弥陀森(65)着いた。道はここから右、大普賢岳を経て熊野へ、左は川上村柏木へと分かれている。少し下ると脇の宿(64)で平坦な広場で自然林が多い。 奥駈道はやがて小普賢岳を経て大普賢岳へと続く。石楠花はまだ蕾で、途中、経筥石へのわき道がある。そこは通過し大普賢岳(63)(1780m)に立つ。この山は和佐叉から2度登っている。 マンサクの多い山頂である。山頂で山友会OBの荒木さんご夫妻に逢った。七曜岳から無双洞を経て和佐又へ戻ると言う。 山名は普賢菩薩からの仮託だが、実にいい響きの山ではないか。東には弥勒岳(小普賢岳)また眺望も素晴らしく、東から台高山脈、正面に大峯サンミャクの孔雀岳、仏生ケ岳,弥山の後ろに八経ケ岳、西に、深い渓谷をへだててハリゴノ頭、稲村ケ岳、ぐるっと振り返れば縦走してきた山上ガ岳や竜ケ岳が視界に入る。行く手の七曜岳、行者還岳、長く背を立て続いている。 急坂を下ると水太覗の展望台に出る。弥勒岳(1655m)の山頂は迂回し、いよいよ奥駆道の最大の難所の岩場にかかる。大きな岩峰が稜線に聳え、行く手を塞ぐものだから自然に斜面のわずかな岩場狭い隙間を横駈したり、鎖場を登り下りたりする。道そのものが靡で修行の場であったのかもしれない。『内侍落し、薩摩転げ』などの転落したら命を失うというイメージの難所が随所にある。実にスリルのある修行の道ではないか。 この難所を下ると稚児泊(60)の鞍部に着く。降って来た北側には屏風のような岩壁が聳えている。鞍部から登ると七つ池がある。水はないがかなり大きなお鉢のようだ。どんな過程で出来たものなのか?(古生層に挟まれた石灰岩が溶けて窪んだのか、二重構造の岩稜なのか)七曜岳(59)(1584m)は狭い岩盤の頂上だった。展望は最高、山名は北斗七星が崇拝対象から来ているといわれている。 行者還岳(58)(1546m)は、奥駈道から分岐して登る。頂上はかなり広いが南側は切り立った垂直な絶壁で、熊野から縦走してきた役の行者がここを越えることが出来ず引き還ったという故事から命名されたという険しい衝立のような山である。新しく建造された小屋から望むとその険しさがわかる。 西行も大峯奥駈道を歩いているが、山家集のなかで『・・・春の山伏は、屏風たてと申すところをたひらかに過ぎむことかたく思ひて、行者ちごのとまりにても思ひわづらふなるべし。屏風にや心を立てておもひけむ行者は還りちごはとまりぬ』と記している。 避難小屋からはなだらかな登りくだりのさわやかな道を繰り返しいくつかのピークを過ぎるとに着く。途中にクサタチバナの群生地がある。一ノ垰(57)(鞍部)から行者還りトンネル東口へ至る道がある。さらに進むとシロヤシオの群生地が延々と北斜面に続く。まだ蕾が固い。 トンネル口奥駈道出合からトンネル西口に下って、第一回目の大峯奥駈道縦走は終わった。2泊3日の行程だったがかなりの荷物を背負っての楽しい道、険しい岩場の道、自然林のさわやかな道、行所の靡、茶屋跡、小屋とまりの長い夜など、修行登山ではないが、歴史的に価値のあるこの縦走は、私にとって非常に重みのあるものだった。 山はもともと尊い神の鎮座するところとして遠く崇拝するところから、修行の場や仏教の伝来から山岳信仰登山として栄えてきた。近年はスポーツとしての登山が主流になってきているが、大峯奥駈道は、両方の意義を兼ね備えた素晴らしい修行登山と言えるのではないだろうか。 第二回目の弥山から釈迦ケ岳、行仙岳までの縦走も是非、楽しく行きたいと思っている。参詣道は先祖たちが遺した貴重な精神的文化遺産であると改めて感じた。 今回同行の山口さん、倉光さん、中広さん、秋月さんご苦労様でした。 また、第1回目はOBの中山さんの絶大なるサポートがあり感謝に耐えません。紙面を借りてお礼申し上げます。 |
※写真をクリックすると拡大します 「写真提供は秋月さん」 |
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大峰奥駈道縦走計画を知って、ひとつこれにチャレンジして山行きの一勲章にしようと決意したものの、重い荷物、長い距離、延々と続くアップダウン、慣れない山(避難)小屋での2泊等を覚悟しなけれ
ばならず、少々不安を抱いて参加した事でした。が、何とかクリアー出来て今は心底喜んでいます。同時に我が身に若干残る若さにもちょっとばかり・・・です。
素晴らしい天気に恵まれ、変化ある景色、山・尾根・木々・道々、そしてメンバーとの楽しい語らいの中、本当に気持ち良い山行でした。次回以降も是非参加して、大峰奥駈道縦走を完遂したいと思っております。以下、感じ、思った点を箇条書きします。 @ コース上にある幾つかの山は日帰り登山で行った事のあるものでしたが、点を一つの線とする事が出来、何となく達成感がある。
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