釈迦ヶ岳頂上

山行日
2008年11月4〜7日
天候
晴,晴,晴,曇
コース
行者トンネル:集⇒西口登山口11:15⇒15:00弥山小屋6:40⇒15:00釈迦ヶ岳15:10⇒16:10深仙宿6:40⇒14:50持経宿15:00⇒16:00平治宿6:40⇒11:00行仙登山口
参加者
男性:佐々木・山口
女性:大谷・堀尾
合計:4名    

 

    山行報告  佐々木英夫

 第1日目 11月4日、行者林道T西登山口―弥山小屋(泊)約3、6km

 第2回目の大峯奥駈道が始まった。当初計画した7月の日程は、全国的に天候が不安定で雷予報が発令のため断念、9月の日程は台風13号の接近でこれも断念した。3度目の正直でようやく出発できたのは、もう秋風が吹き始めたころだった。

 前回の参加者は、男性ばかりだったが、今回は果敢な女性が重い食料やシェラフを持って3泊4日の縦走に参加してくれた。 同行者は大谷典子さん、堀尾洋子さん、山口博さん、中山勝久さん、と私の5人である。

 今回の出発点は行者林道T西口で、11時15分出発、途中で昼食を済ませ、トンネル西口分岐で奥駈道に合流、弥山小屋(泊)まで登った。サポートの中山さんも途中の聖宝の宿付近まで同行してくれ、明日は前鬼口から釈迦ケ岳に登り、深仙ノ宿で落ち合うことにしてここから戻った。今回も多大な支援をして頂くことに謝意を表する。

 この間の靡は石休や、弁天ノ森があり、トウヒ、ウラジロモミなどが鬱蒼と生育している。オオイタヤメイゲツは葉を振るい落とし、もう秋は終わり、枯葉の道は優しく、気候も最適であった。講婆世宿には、標石柱があり、弥仙宿・歩測千八五十五と刻まれていた。講婆世僧正は、恨みと、出世欲と、罪の意識を持ちそなえた僧侶だったようだ。理源大師像の宿あとを過ぎ、聖宝八丁の急坂をジクザクに登ると、鉄梯子があり、やがて弥山小屋の大地に取り付く。 弥山小屋には15時に到着、2001年5月以来、2度目のことである。

    目に近く弥山を見つつ峰々を 終日越ゆる奥がけの道    大町桂月

 《大峯山はわが国でもっとも古い歴史を持った山である》と深田久弥は日本百名山の冒頭で述べている。数年前に、ここから拝した朝日は、大台ケ原、山上ケ岳、大普賢岳の峯々を徐々に照らし、やがてこの聖地に明るさを置く様を体験した。その荘厳さは激しい修行をする山伏たちにひと時の安らぎを与えたものだろうと感じた。

 弥山は仏教の宇宙観の中心である須弥山から名づけられたと言われている。やはりここにも仏教の世界があった。山頂(1895m)は小屋の西側をすこし登ったところにあり、弥山弁財天社は天川神社の奥の院であるそうだ。また、役行者さんが祀られている御堂がすこし下がったところにある。奥駈道の靡や宿、嶽の山頂では、今後、役行者像は多く目にすることだろう。トウヒ、シラビソ、ウラジロモミなどの針葉樹の縞枯れの範囲が、悲しいかな七年前より広がっているように感じた。

 宿泊者は私たちのほかに、天川川合から弥山川の谷筋コースを遡行してきた六人の若者達だけだった。

第2日目 11月5日、弥山小屋―八経ケ岳―五鈷嶺―船ノ多和―仏生ケ岳―釈迦ケ岳―深仙宿(泊) 約10,6km

 朝は調達してきた食事を取り、国見八方覗きから御来光を拝した。大峯、大台の競りあがった山々を360度の展望で見晴るかすことが出来る。この地は深い渓谷に雲海を敷き、まさに国見八方覗きと言うべきか。すばらしい眺望だったが、立ち枯れの樹木のなかに昇るご来光は、異様な感じもする。自然が破壊される蔭を見たようだった。

 6時40分時に出発した。八経ケ岳には30分ほどで到着、山頂は狭い岩峰で、役行者が法華経八巻を埋納したと言うことから八経ケ岳となづけられたが、この一帯は仏経ケ岳原始林として国の天然記念物に指定されているところから、別名仏経ケ岳、八剣山、または、明星ケ岳とも呼ばれていたらしい。オオヤマレンゲの群生地でもある。

 八経ケ岳ですこしの休憩取りすぐ通過する。頂上からすこし下ると、明星ケ岳山頂への分岐があり、 5〜6分で往復できるそうだがそこは通過する。篠原の辻からさらに下ると正面に七面山や仏生ケ岳を望みながら歩くと、岩壁の下に碑伝が沢山立てかけてある菊の窟遥拝所に着く。

 菊の窟は、『笙の窟』に見られるように冬籠りの修行が行われた所と言う。奥駈道の主道から外れているが笙の窟は靡の中でも最大の秘所として知られている。板状層理の屹立した岩壁の下が祠になっていて、自然に崩壊して出来たものか、人工的に作り出したものか定かではないが、上北山村教育委員会に電話で確かめたところ、幅十二m、高さ三.三m,奥行七mと広く、発掘調査のとき、鉄釘などが出土したと言う。即座に、三徳山の投入堂(役小角が祠に投げ入れて造ったとされる)を思い出した。窟の中に御堂のような建造物あったのかもしれないと思った。2004年4月に訪れたときは岩壁から滴り落ちる水滴がレースのカーテンのように幾筋もの白糸を下げたように見えて感動したものだ。

 菊ノ窟から禅師の森を経て五鈷嶺と言われる岩塔の崩壊はげしい場所を巻くように下る。密教の法具の五鈷杵の形から名づけられたと言われている。大岩が無造作に散乱した大地を縫うように奥駈道は舟の垰と言という鞍部に着く。キャンプ適地とあるがここには水場が無い。舟の先から舟底に降るように道は付いており、周囲を眺めると、まるで舟に乗っているような感覚さえする。 この付近にはスプーンですくったような地形が数多くあり、二重山稜なのか、または山腹崩壊(円弧すべり)による亀裂窪地なのかも知れない。

 七面山がカワラハツソウ谷の源頭の向こうに見える。やがて七面山遙拝石に着く。七面山は峯中最大の修行場であったらしい。巨大な岩峰の七面山は大峯の秘境で、眺望はアルペン的であると、近年登山者の人気第一の花丸の山であるという。遥拝所というのは、その場所に行けず、遠くから崇拝対象として、拝する場所のことである。

 楊子の森から西に分岐してガレ場の痩せ尾根を一時間ほどで東峰(1624m)に登れると言うが、この山は後日登ることを心密かに思い通過する。楊子のノ森といわれる小高いミヤコササの丘から臨む七面山の南側の岩壁は七面ーと呼ばれ、屹立した断崖絶壁は垂直で300mほどもあろうかと思われる高さで白い肌を曝している。その岩下の麓は素晴らしい紅葉であった。ササ原に寝転びながらしばしその素晴らしさを満喫した。踏みあとを残してきた八経ケ岳や、縞枯れの幾つもの小さなピークが、延々と続いている。

 すこし進むと 楊子ノ宿小屋があり、キャンプ適地で、かつては二十メートル四方もの建物が建っていて、かなりの宿であったようだ。大峯の聖護院門跡は生涯に一度は大峯に入山し修行する習わしがあったという。仏生ケ岳(1805m)の山頂の西を巻いて道は続いている。仏生の横駈である。 この山の東西の谷には岩塔が林立しており、その形が見方によれば羅漢像を想像させられるものだった。 頂上は踏まない仏生ケ岳の横駈なる所以である。仏生ケ岳遥拝所を経て尾根を進む。

 奥駈道のそばに鳥ノ水なる水場がある。細いパイプからの水量は少ない。ここで一息つく。深い谷の幾筋もの尾根には浸食で残った岩塔が多く見られる。鳥の水を過ぎ孔雀岳(1779m)の手前に孔雀覗きの岩峰がある。覗きは道の東側にあり、深い眼下の紅葉の尾根に屹立する奇岩、巨岩は奥駈道の屈指の名勝、行場であろう。もう眼前に見える釈迦ケ岳まで110分の標識がある。これから先は鎖場のある岩場が続く。 岩塔の奇岩が立並び、小さなキレットあり、連続して行所、名勝の景観が現れてくる。

 小尻返し、両部分けを慎重に行くと、道が消えたようになる。斜面から立ち上がったような岩塔の先端に阿吽の狛犬が飾っている。橡ノ鼻と言うそうだ。露岩は大小の群を形成しており、五百羅漢とも、十六羅漢とも呼ばれている景観の素晴らしい場所である。孔雀岳から釈迦ケ岳までは山容はめまぐるしく変化し、修行者の最大の靡きで、登山者にとっても最大の難関であるのかもしれない。

 この一帯は大峯酸性岩と言われる岩石は割れ目が方状に発達し、周囲のもろい部分が崩壊して硬い部分が岩塔として残ったものだろう。 その光景は奥駈道随一の絶景といわれている。この道は岩場が多く、鎖場も随所にある。道そのものが厳しい修行の場であったことが知らされる。慎重に登り、細心の注意を払って下る。

 以前、鹿島槍ケ岳から五竜岳までの八峰キレットを縦走したが、この大峯奥駈道もそのような厳しい山道で、岩場は急峻で小さな鞍部を幾つも越える。岩場も風化して脆い感じだ。峰中最大の難所だった。
中山さんが前鬼口登山口から釈迦ケ岳をへて鞍部まで降りてきてくれていた。    

    峰高き奥駈道の羅漢たちは 苔を纏いて 無して立ちける

 木の根や岩角をつかみ、垂直に身体を持ち上げるような絶壁を登ると、やがて釈迦ケ岳(1800m)に到達する。山頂には銅製の釈迦如来像(台座から光背までの高さ3,6m、総重量300kg)が立っている。

  伝説の強力、《岡田雅行、独力にて運搬せし者》と台座にその功績が刻まれている。大日岳には等身大の大日如来像、橡の鼻には蔵王権現の小さな像もこの強力さんが、最大限に分割された仏像を前鬼口から太古の辻、深仙の宿、大日岳、釈迦ガ岳への約8kmの厳しい山道を「送り持ち」方式で担ぎ上げたといわれている。釈迦如来像は大正十三年七月建立とある。しばらくその像を拝し、怪力無双の強力の凄さに感嘆した。役行者の僕、鬼人の再来ではなかったのだろうかと思ったほどだった。

 鬼といえば役行者に待従した前鬼(男)、後鬼(女)であるが、その後、二人は夫婦になり、《大峯修行者のため、峯中を守護し、修行者に奉仕せよ》と言う役行者の教えを守って、釈迦ケ岳の東麓に山伏村を開いた。その子孫は現在の前鬼山の麓の宿坊小仲坊五鬼助義之さんといわれている。

 釈迦ガ岳の頂上から千丈平へ下る登山道が最近整備され、厳しい前鬼口からの道よりも利用頻度が多くなっていると言う。山頂を辞し、水を求めて千丈平に降り、(中山さんの情報によると香精水は一滴の水も汲めないほど涸れていた)水を汲み深仙の宿に向かう。

    そこかしこ羅漢と思えば奇岩群 釈迦の周りに眷属して立ており

 鞍部の開けた深仙宿に到着(15時40分)したときは、心身とも疲れ果てていたが、また、何か妙に心やすらぐ充実した一日だったことを感じた。まず大峯中台八葉深仙灌頂堂を拝した。深仙宿は北に釈迦ケ岳の峰、その基盤とも思われる下に大きな岩盤がむき出しになっている。四天石と言うそうだ。 香精水はその岩盤を滴り落ちているが、今は涸れていてその聖水を頂くことは出来なかった。

 南には砲弾形の大日岳が聳えている。避難小屋には先客が二人いた。小屋は5人位しか非難できないと記していたが6人が入室し、私は持参したテントを避難小屋付近に張った。夕食は中山さんが担ぎ上げてくれた秋刀魚寿司と北緯44度の焼酎で終え、早々とテントに入った。風がでてきテントを揺らす。西行が大峯修行で詠んだ歌の多くの中に(山家集)

    月澄めば谷にぞ雲はしづめる 峯吹きはらふ風に吹かれて  西行

と言うのがある。西行はこの宿で三首もの月の歌を詠んでいる。

  小篠宿と同様この聖地も修験の灌頂を施す重要な場所だけに、月が澄み渡り、峯の下に雲をおく幻想的な冷え切った環境に身をおくと、何かしら霊気を感じるものだった。 灌頂とは修行者が仏と縁を結ぶための儀式をいい、目隠しをして曼荼羅に華を投げ、その華の落ちた尊像戸祝宴があるとするものらしい。(投華得仏ともいう)

 ここまで多くの仏像や、自然のなかに存在する岳や岩峰に名づけられた明らかに宗教から由来する名称の景観を見てきた。

    峰々は仏の世界の名を冠し 険しきなかにも心安らぐ

 仏像の本来の姿は仏陀(如来)像のことだが、そのほかに菩薩、明王、天部の像が存在する。 仏教では、一般的にはその役割が決まっていて、そのために位に立つために厳しい修行しているという。 《如来》は、すべての悟りを開いたもの、本尊仏を如来といい、釈迦、阿弥陀、薬師、奈良の大仏の毘舎那仏、大日らの如来が存在する。

 《菩薩》は、如来を補佐する菩薩で、仏陀になることが約束されている修行する者で、観世音菩薩、十一面観音菩薩、千手観音菩薩、如意輪観音菩薩、普賢菩薩、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩、金剛菩等で、釈尊の成道前の姿で現れている。

 《明王》は、仏教を外敵から守護する大日如来の使者とされている。 教化しにくい衆生を畏怖させ、調伏させるために憤怒の姿で現れている。不動明王、五大明王、孔雀明王、愛染明王等が存在する。

 《天部》は、如来や菩薩を守り現世の利益を施すといわれ、梵天、帝釈天、金剛力士、毘沙門天、吉祥天、四天王、十二神将、弁財天、大黒天、など役割に応じた守護神が多い。 そのほかに羅漢があり、尊敬と供養を受ける尊者として存在する。釈迦の眷属とされている。

 大峰奥駆では、これらの仏教用語が多く嶽、峰、岩峰、森、などの森羅万象のなかに名づけられている。 深仙灌頂堂には前鬼、後鬼を従えた役行者、不動明王、八大金剛童子、等が祀られいてる。小篠宿と同じ配列で一段下がったところに護摩壇が設けられている。 

 暮れなずむ靡きの夜は、西行が厳しい修行の体験の中で月に寄せる思いを詠んだ情景とは程遠いが、半月淡い光の中で私も次のようにその情景を詠んだ。

    黒々と雲海纏いて峰々は 月の青さを光背にして聳つ

 夜中に天幕を通して光る二つの物体を見た。びっくりしたが、鹿がテントを覗いたいたらしい。こちらからもライト燈すと消えてなくなった。寒さをまとい(テントの中は6℃)なかなか眠れない。山行前に学習した大峯のことを回想しながら眠りを呼び込んだ。大峯の最大の難関はクリアー出来た安心からか、そのうちに眠ってしまった。  

第3日目 11月6日、深仙宿―大日岳―二ツ石(太古の辻)―天狗山―地蔵岳―涅槃岳―持経ノ小屋―平治宿 約11,8km

 この朝も御来光を拝した。雲海が沈み、山々の突端が浮島のように見られる。感動の光景をゆっくり堪能し、6時40分、靡を出発した。今夜の宿は持経宿か平治宿で、時間の都合で少しでも奥駈道の先に行きたい。聖天の森と呼ばれる一帯を通ると、尾根を降りたところに露出した岩群があり、一見巨大な盆栽を思わせる景色に出会う。

 かって日本百名山紀行の折り金峰山から瑞牆山への途中に見た苔むした露岩に根付いたカラマツの盆栽風の風景をいたく感激した見たことを思い出した。この付近を五角仙と言うらしい。 やがて大日岳の登り口だ。空身で大日岳(1593m)に向かう。

 元来修行の舞台であった急斜度の露岩壁は、崩壊の危険のため南側からの巻き道を登るが、ここもフィックスロープを利用して登る。頂上は展望が素晴らしい。脈々と連なる大峯の中枢、釈迦ケ岳から笠捨山、何より驚愕するのは眼下の都津門、五百羅漢群の切り立った岩峰である。 山頂には、大日如来像がどっしりとして鎮座している。 釈迦如来立像を運び上げた岡田雅行氏が運び上げたもので、大正15年6月設置とある。

 大日岳を往復し、鞍部から再び奥駈道を南下する。前鬼に下る分岐点、二つ石のある太古の辻に到着、これより大峯南奥駈道とある。中山さんは次の行仙宿で私たちを待つため、前鬼口に降った。

 南奥駈道は明治政府になって神仏分離が出てから修験道の修行は衰退し、信仰の山々は通る人も少なくなり修行道は荒れに荒れその存在さい忘れ去られていた。ここ奥駈道も吉野山から前鬼降るコースは、日の目を見るようになってから復活したが、太古の辻から以南は最近ようやく昔の修験道が新宮山彦ぐるーぷの奉仕活動によって熊野本宮まで45kmkの道程が整備されたと言う。 その努力には感謝と敬意を払わずにはいられない。鞍部の笹原には岩が林立している。枯山水の造形を思わせる。  

 蘇莫岳(1530m)の石舞台のピークを越える。蘇莫者は雅楽の名曲で、その音色に仙人が舞いを舞ったと言われている。石楠花岳の密生した石楠花の山頂を越え、ヒメシャラの優しいなだらかな尾根道を降り、登り返すとやがて三角点のある天狗岳(1537m)に到着する。これからは高度は下げるが、鞍部を経て、いくつかのピークを越えていかなければならない。

 行く手の山脈が永く南に延びている。未知の奥駈の道は、果てしなく続いて見える。ウラジロモミや、ブナの疎林の中に黄色や赤の紅葉を見ながら、ゆっくり進むと奥守岳(1537m)につく。バイケソウの枯れた茎が多く見られる。ここからかなりのくだりで嫁越峠に着く。十津川村から下北山村に通じる峠で、古くは北山一揆や、大峯の山開きに盛んに使われていた道も、今は荒れて通行する者がない様で、道悪しの標識がある。

 嫁越峠から地蔵岳に向かうとミヤコザサの広場に出る。天狗の稽古場と標識がある。樹木は無く明るいさわやかな装置で寝転んで休みたい雰囲気である。先を急ぎ、さらに登ると地蔵岳(1464m)頂上に到達する。ヒメササの緩やかな山稜を行くと、『千日刈峰行』と記された道が続く。新宮山彦グループの活動の証が道に現れている。感謝しながらこの道を歩く。

 ブナや背の高いスズタケのブッシュが現れ始め、般若岳(1345m)、下って滝川辻、乾光門と道は進む。乾光門は拝みの返し跡なっている。ここですこし永い休憩を取り、涅槃岳(1376m)向かう。ブナの原生林の山頂であった。ヒメシャラ、リョウブや、スズタケ、シャクナゲの林層の緩やかな登り降りを繰り返し、証誠無漏岳(1301m)の下りでは大木のシャクナゲを見る。阿須迦利岳(1251m)を越える。阿須迦利岳をくだって行くと、草刈機のエンジン音が聞こえてきた。新宮山彦グループの人が道を整備していた。もう持径の宿は近い。

 小屋は白谷池郷林道の側に立っている。新宮山彦ぐるーぷの代表、西岡憲明さんが待っていてくれた。 すこし話をしてから平治の小屋まで行くことを伝えて、小屋周辺は今盛りの紅葉で素晴らしい。あと一時間ほどの道程を頑張って歩き始めた。すぐに持経千年檜があり、推定樹齢800年以上といわれている。

 奥駈道の北方、釈迦ケ岳から弥山はウラジロモやツガ、トウヒなどの白骨化が進んでいて、谷筋の崩壊も随所に見られ、自然崩壊の景観であったが、南奥駈道は、モミ、ツガ、ナラ、ブナなどの天然の大木が多く育成していて全く違った林層を見る感じがした。これらの大木は幾多の奥駈道を行く苦難に満ちた修行者たちの 過ぎ行く姿を共に見つめていたに違いない。

 中又尾根を越え、すこし降ると広い道になり平治の宿小屋に到着した。早速西側の谷間に水を汲みに急道を降った。水場まで3分とあるが10分くらいかかった。小屋の横には今西錦司博士が訪れた記念に植樹された桜があつた。その前に西行の歌碑があり、

    こずえ洩る月もあわれを思うべし 光に具して霧のこぼるる   西行

 小屋は私たち4人だけで、新宮山彦ぐるーぷ代表、西岡憲明さんが差し入れてくれた缶ビールが置いてあり、《京都山友会の皆さんお疲れ様でした。歓迎の印の缶ビールを召し上がってください》との心つくしがありとても感激した。此処でも早々と夕食をすまし、シェラフにもぐり込み、夜中に屋根をたたく雨音を気にしながら、疲れ切った身体を癒した。

第4日目 11月7日、平治宿小屋―転法輪岳―倶利伽羅岳―怒田宿跡―行仙岳―R425号線登山口 約5,0km  

 乳白色の霧が山を包んでいる。幽玄の世界が、大自然のなかに感じられる。奥駈道を二度も修行した西行の世界が、霧の中に見る気がした。霧は全山を覆っていたが雨はなかった。小屋を6時40分に出て、坂道を転法輪岳に登る。初日から山に入ってから一人もの登山者に会わなかったが、怒田宿の跡で東京から来たという若者と出合った。今日中に玉置神社まで歩くと言う。ここから玉置山を経て神社までは約16kmほどある。若者は先に出発し、我々はゆっくりした歩調で行仙岳(1227m)をめざした。

 行仙岳の登り口で中山さんが迎えに出てくれた。登りきるとNHK下北寺垣内テレビ中継塔と、NTTの行仙無線中継所が建っている。枯れた大木の下に靡きと思わる場所があり、北に釈迦ケ岳からの峰々が、くねくねと続いている。 あの峰のピークを15kgほどのザックを背負い、あえぎながら登ったり下ったりして、4人とも元気に延々と歩いてきたかと思うと、凄いものだと感じずにはいられない。山口さんには終始先頭をリードしてもらった。大谷さん、堀尾さんの頑張りにも頭がさがる。

 行仙岳を辞し、中継施設を管理するためによく整備された道は、鋼製の階段などが設置されていて、行者道とは違った雰囲気だ。奥駈道より分岐し、R425号線の登山口には、11時00分到着した。 こうして無事に第2回目の大峯奥駈道の縦走は終った。行者トンネル西口登山道から、重い荷物を背負い、歩行距離約31km、良くぞ歩いたものだと思う。中山さんのサポートに心からお礼申し上げ、最終の行仙宿から熊野本宮大社までの完走を願い、まだ延々と続いている峰々を目に焼き付けてきた。    

    もみじ葉を踏みて駈ける大峯の 過去(こぞ)の修験 かしこに偲ばる   

    大峯の靡きに残る朽ち果てた 塔婆に宿る修行の祈願





 弥山小屋の夜明け

  八経ヶ岳

七面岳

五百羅漢 

  大日山

  平治宿

   奥駈道の紅葉

   行仙岳
写真提供は山口さん