奥多摩
雲取山・丹沢山  
        2017m・1673m


山行日
2006年6月23日〜25日
天候 
   晴れのち曇り
コース
京田辺7:00→14:40三条の湯泊5:00→7:30三条ダルミ7:40→8:10雲取山8:55→10:55三条の湯11:35→15:30神ノ川ヒュッテ泊5:00→6:40風巻ノ頭6:50→8:30姫次8:35→10:15蛭ヶ岳10:45→12:05姫次12:10→14:40神ノ川 ヒュッテ→23:00京田辺
参加者

男性:CL佐々木英夫・山口博・金本好彰・徳田康二・寺澤淳
女性: SL堀尾洋子・徳田かよ子・澤田靖子
合計:8名


  
    山行報告 佐々木英夫
 6月23日・奥秩父の山域を東アルプスと称呼する。北ア、中央ア、南アに対して、東アルプスと言っても何の抵抗もない感じであった。広大な山地の西から、金峰山・瑞牆山州、甲武信岳・雁坂州、大菩薩嶺・笠取州、そして雲取山・両神山州の区域を総評して東アルプスといっている。 

  梅雨のさなかに延期になっていた雲取山、丹沢山を登ることになったが、天候は曇りで非常に幸運であった。雲取は非常に歩きやすい三条の湯からの往復を選択した。自然林と清らかな渓谷が気に入った。東京都の水がめ奥多摩湖にそそぐ水源涵養保護の流域地として、道路もよく整備されていて、歩きやすい。

  三条の湯から雲取山の往復は、ゆっくり歩行で6時間の行程であった。奥秩父の奥山の素晴らしさは、田部重冶、木暮理太郎らの山岳紀行を読むように感じ取れる。東京都の最高峰として、多くのハイカーが四季折々訪れる。主脈の雲取から三峰口までの縦走路は、妙法ケ岳・白岩山を経て、三峰駈の修験道場として隆盛を誇ったとある。余裕を残した山行であった。
 
  6月24日・丹沢山地の最高峰蛭ケ岳のコースは、さすが上級者・健脚向きといわれ、かなり厳しい山であった。天候は曇りで下山後の帰京を考慮、朝5時の出立つとした。風巻ノ頭までの急登は約2時間にも及んだ。袖平山を経て姫次までの東海自然歩道も、きついアップダウンの連続で、ここをコースタイム約1、5時間で登行で来たのもラッキーであった。姫次から蛭ケ岳まで約1,5時間、頂上直下の急登の崩壊地は、無残な姿で、山肌を見せていた。丹沢がかって原生林の豊かな山地だったのが関東大震災で山肌が皮をめくったように大崩壊して谷を埋め、厳しい山容になったといわれている。

  展望は雲の中で丹沢山塊の全貌は見ることが出来なかったが、天候、歩行時間、その他のアクシデントを危惧していただけに、登頂の感激はひとしおであった。下山も慎重に降り、神ノ川登山口に着いたのは、午後2時40分だった。梅雨の最中、雨にも遭わず2名座の山行が無事完登出来たことは、非常にラッキーだったと思う。健脚の皆さんありがとうございました。山は低くとも、比高を充分保持しているコースの山は、やはり厳しい故、慎重に企画せねばならない。車を出していただいた徳田康二さんには厚くお礼を申し上げます。


 

  感想−1            ”山の神様ありがとう”感謝一杯の雲取丹沢山行

 エー!なに〃ココが東京都?  若葉の落葉樹一杯の原生林、東京都民の水道水の源 流。さすが秩父奥多摩国立公園、川のせせらぎが涼しさを増し気持ちがよい、奥多摩と いう響きに一度は来てみたかった山であった。出発前夜、梅雨の真只中大雨〃『本間に行かはんのやろか?長靴で歩こうか』といろい ろ心配していた。当日、徳田さんの車に乗せてもらう。曇空だが雨は降っていない、ラッ キー〃  だが長い道のり運転ご苦労様。

 秘湯三条の湯は夏山のアルプスなら布団1枚に3人くらいだが、梅雨時期なので、宿泊は、我々パーティーだけ、一人に3畳は使えてゆったり就寝出来た。三国の県境、雲取山頂は避難小屋も整備されていてトイレもきれい。花にはあまり合えな かったが、木陰を登る比較的楽な山行でした。下山後、又三条の湯の温泉で汗を流し、丹沢方面へと移動した。

 神ノ川ヒュッテに到着するや否や、渓流を眺めながらの露天風呂がありますとの事、女性 3人勇んで入りに行くと五右衛門風呂の釜に熱い湯が沸かしてあり、横のポリ風呂に湯を 汲んで水で薄めるのです。無理を承知で一緒に入ろうとお尻は上下、足は組み、向きは 交互に、キャッ・キャッと姦しく、子供のように湯に浸かり愉しかった。

 丹沢蛭ケ岳を目指し11回もの登り降りを繰り返し、やっとついた山頂では雲に包まれて展 望が全く駄目『お願い、山の神様少しでもいいです晴れ間を下さい』するとスーと雲が消 え前方の山並みがきれいにみえはじめた。日頃の精進の御蔭? カツラ、ナラ、ブナなどの若葉の中、オゾン一杯に吸って、気分ははつらつ、しっかりリフ レッシュできた山行でした。参加して本当に良かった。

 鉄人徳田さん、佐々木さん、長い道程の運転お疲れ様でした。ありがとうございました。
自主的に感想文を書きたくなった山行でした。 (澤田靖子)

            
      雲取山頂にて            丹沢、蛭ケ岳山頂にて





  感想−2           日本百名山     雲取山・丹沢山へ 

 諸事情で延期していた例会を、復活しての奥秩父山塊雲取山と丹沢山地の最高峰蛭ケ岳を、梅雨の最中に実施することに、多少の抵抗を感じながらの出発となった。 西日本には梅雨前線が停滞していて、天候は最悪だった。再度、順延かと思ったが関東の太平洋沿岸に高気圧が発生していて、この天気図であれば勢力が強そうであったので、案外雨は降らないかも知れないと適当に判断しての決行だった。参加者は、徳田康二かよ子ご夫妻、山口博、金本好彰、堀尾洋子、澤田靖子、寺澤淳、と私。

   雲取山 標高2017m 2006年6月24日(土)曇り
 
  雄大な奥秩父の山塊は多くの主脈を造形し、西端は金峰山から甲武信岳を経て東端の雲取山を最後に2000m級の峰々が終わる。山岳の先人たちがこよなく愛した奥秩父の雲取山には、京都を出て、丹波山村のお祭りから後山林道を走り、青岩谷橋から、後山川流域の水源涵養林のよく保存された広葉樹の心地良い登山道を30分ほど歩いた谷間に三条の湯があった。(後山林道は雪解け時や、大雨のときはよく土砂崩壊により通行止めになることがあり、雲取山行延期の理由も、通行止めが其の理由だった。)

  清流は流石に美しく、白龍の尾のごとく原生林の緑のなかを縫うように静かに流れていた。この景色を見ていると、森林と渓谷の素晴らしさは奥秩父の代名詞なのかも知れないと思った。 宿は古く多くの文人、釣り人、猟師が、利用したといい、特に宿にあった中西悟堂の食の月の色紙は、興味があった。この日の宿泊者は私たち8名で、日陰沢橋で会った大学生の一行は川の広場でテントを張っていた。

  翌24日、5時に出発、天候は曇りで雨の心配はなさそうだ。ゆっくりペースで三条ダルミを経て、雲取山頂には8時10分に到達、東京都、埼玉県、山梨県の三境に聳える名峰だった。全員何事もなく元気に山頂へ。奥秩父の山々を世に送り出した田部重冶や、木暮理太郎の名紀行文を山全体から感受、奥秩父の自然を見入った。

  山頂にせりあがる道は三方向から続いていた。奥多摩側は、後山林道と、鴨沢から七ツ石山・小雲取山を経て登る道と、秩父側の三峰山頂駅から三峰駆けといわれた妙法ケ岳・白岩山を経て雲取山へと登る約10km・比高1100mの尾根筋の長い道と、又、それらから派生する谷筋、尾根筋から三つの主戦に合流する登山道があり、東京都の最高峰として人気の高さが知れ登山者も多い。この日の展望は無理であったが、山座同定の表示板で、名座を想像したりして楽しかった。

  山頂には一等三角点のほかに、珍しい原三角測點の標石(国土地理院が設置した以前に内務省地理局が1880年ごろ設置した標石)があったところを見ると、やはり山岳歴 史としては、かなり古くから岳人の憧れの名峰の感がした。 三峰側から夜中12時に出発してきたという4人の男女のパーティがあっただけで、今の時期(梅雨時)登山者は少なく山頂は閑散としていた。(春新緑と秋紅葉の時期が一番賑うと、三条の湯の主人が話していた。) かっては山岳修験道の山として隆盛を誇ったといわれたのに、不思議と御嶽山のような 宗教的な雰囲気は感じられなかった。時期が悪いのか花の百名山の田中澄江さんも宿泊した三条の湯からの山道では、高山植物を見ることはなかった。

  下山も三条の湯に降った。途中テント泊の若者達と出合った。又、近くの青岩谷鍾乳洞を探検するという若者の一行が小屋付近に集まっていた11時頃下山、湯を浴び、青岩谷橋まで戻り、次の丹沢山(蛭ケ岳)登山口、神ノ川ヒユッテをめざした。

                           
       雲取 山頂にて                      雲取山コース図        

  蛭ケ岳  標高1673m  6月25日(日)曇り

  24日夕方神ノ川ヒュッテに到着、暮れなずむ山塊に一際三角錘に聳える山の奥、薄々とそれより高き山並みが望まれた。宿の主人は『風巻ノ頭で、その奥の奥に蛭ケ岳が位置し、自分たちの足で約5〜6時間の行程だ』という。さらに『このコースは丹沢でも屈指の上級者コース』と付け加えられた。雨にでもなれば、さらに時間がかかるだろうと思うと天候ばかりが気になる。下山の時間や、帰京のことを考えると、もう一泊の余裕を感じさせられた。

 朝の出立を5時とした。日陰沢橋から閉鎖された林道を、10分ほど歩き神ノ川をわたるとすぐに急登となる。この道は東海自然歩道で、丹沢山地の神奈川県と山梨県の県界をわける分水嶺、姫次まで続いている。風巻ノ頭までは流石にきつく、休み休みの登行であったが、1時間50分ほどで到着、さらに袖平山、そして、東海道自然歩道の分岐姫次まで気力を奮いたたせ登る。尾根道もきついアップダウンがあり、なかなか妥協の許さない山であった。姫次までは、コースタイム通りのまずまずの登行で、皆さん快調のようで安心した。原小屋平跡・地蔵平の比較的歩きやすい尾根を歩き、蛭ケ岳の最後の急登に取り付くと、この一帯は崩壊が激しく登山道も迂回されたり、階段が作られたりして登山道が保護されたりしていた。

  あと蛭ケ岳まで300mの案内板からの道程が長く、感覚的には1kmも登ったほどの感じがした。10時15分、神ノ川を出て5時間15分の行程で丹沢山地の最高峰、蛭ケ岳に登頂した。視界はきかず、ゆっくりと丹沢山地の全貌を見ることは出来なかったが、一瞬の晴間から山並みが望まれた。山頂には遅いミツバ躑躅が一本楚々と咲き疲れを癒してくれた。かつては鬱蒼とブナの巨木が林立し、ススダケに覆われていた丹沢山も、修験者の山といわれ、薬師如来や、それ以前には毘盧遮那仏(大日如来)を祀っていたとも言われ、びるが岳、薬師岳とか、と呼ばれていたようだ。
 
 丹沢山が国体の登山会場(第10回目の1955年に、私たちの学校の山岳部も参加の希望があったが駄目だった。)に選ばれてからは、多くの登山者が先を争って人気が出始めたという。そのときのコースが檜洞丸−白ケ岳−蛭ケ岳の主稜コースだった。一般的なコースをはずして神ノ川登山口往復を選んだ訳は、当初計画した丹沢山登頂が、丹沢湖より玄倉川上流のユーシンロッジ泊、そして、尊仏ノ土平を登り、塔ノ岳・丹沢山・蛭ケ岳の三山を回り、熊木沢を下るコースだったが、ユーシンロッジの都合(神ノ川ヒュッテで、ユュシンロッジの主人が亡くなったと聞いた。)で一時閉鎖されていたためだった。(日程を延期したため、当初参加を希望していた会員の皆さんにお詫びします。) 山頂を10時45分に下り、神ノ川登山口に下山したのは14時40分だった。

  天候、時間、その他で、登頂が無理な場合は、途中から撤退しようと言っていた山行だっただけに、参加者の健脚ぶりに、出発時の危惧が吹っ飛んでしまい感謝しております。あと、7月中に、北ア裏銀座の薬師、鷲羽、水晶、黒部五郎を登ぼり、東北の飯豊・朝日、そして再び北アの笠ケ岳を遣れば、後は富士山のみがターゲットになるまでになってきた。なんとか今年中にと思っている。 (佐々木英夫)

             
        崩壊した登山道を下る                  蛭ケ岳山頂にて