綿向山からの下り道、「誰が感想文を書くか」が話題に上った。「初心者が書いてもいいですが」と夫が後ろから言った。歩きながら、「アンタが書きよ」と責任の押し付け合いをやっていたら、鈴木さんから「二人で書いたらいいやないの」と仲裁ならぬ、嘲笑のとどめがあった。帰宅後夫はすぐに感想文を書いて、かんなび編集長に送ったらしい。私にはもう書く必要がなくなった。しかし、考えてみると、今回「開眼」(?!)とも言える新しい経験をしたのだ。やっぱり一言、印象のみを書き止めておこうとあまのじゃくは思った。
昨年の北海道幌尻岳の登山は、私にとって画期的なものになった。山の麓にたどりつくためには、川を20回渡渉しなければならないという関門があった。このことは当日をはさんで前後2ヶ月以上「マイ・ブーム」ならぬ「マイ・センセーション」であった。敢行前抱き続けた不安感、恐怖感が強かっただけに、なし終えた後、それがそのまま大きな喜びに変わった。川の真中で見た、ドーッと無情に押し寄せてくる水の流れは、今思っても恐ろしいものがあるが、水のしぶきを浴び、まくり上げたズボンに滲み込んでくる水の感触は、楽しかった幼き頃へのノスタルジアをくすぐった。そのときから、もう一度あの楽しさを味わってみたいと思ってきた。
そうなると人間勝手なもので、初夏のかんなび誌に毎年だされる沢登りの計画が待たれるようになった。5月号にありました。鈴鹿沢登り(ヒズミ谷から綿向山)、初心者向けの沢、大きな滝はなく、小滝と滑床が連続する・・・。左手首に少々の故障がある私でもこれなら行けるだろうと申し込んだ。
初心者とベテランの思いは随分違うものだ。行ってみると滑床は延々と続かず、代わりに滝が次々に現れた。最初滝の中心を避けていたら、滝を登れとの命令。[じゃあ、やってやろうじゃないの]と開き直ったら、その方がずっとおもしろい。丸山さんが手足の置き場を丁寧に指導してくださる。後ろから見守ってくださっていた鈴木さんから「三点確保がちゃんとできていない」の批評を戴く。思っていたより,お尻が軽く上がる。(誤解のないように、尻軽女なんて申してはいません。) 後ろにいた亭主は「軟弱者」と言われている。どうやら安全サイドを選んで、滝を避けていた様子。「すべる岩の感触を覚えるように」、「深みの中に泡が立っていたらその下には岩があって、足場になりうる」・・・二人の初心者に丁寧な指導、感謝。3時間ほどの沢登りの冒険は(?!)あっという間に終わった。
帰りの車の中で年齢のことが話題になった。「すごろくのように人生もスタートにもどれたらいいのにね。」「いいや、欲は言わん、五つでいいわ。一からやり直すのは大変だ。」・・・
私たちのような年齢になると、楽しい経験をした後、やっかいなことに満足感で終わらないのだ。その裏腹に潜んでいる悲哀、そいつが押し寄せてくるのだ。とりわけ初めて秘密の花園を覗いた者は強くそれを感じてしまう。しかし、贅沢にはきりがない。「今こんなことを経験できる幸せに感謝しなくては」でしょう。その通りです、わかっています。一方、私たちが憧れる有利な立場にいる、まだ若い人にはこんな楽しいことを若い頃に始めてほしいと思う。彼らがそんな余裕を持てるようになれば日本も変わるのにと思う。 (倉光 展子) |